010.共に汗を流し、まっすぐ、体当たりする経営者 4/6


今回のドリキャリ・インタビュー、「010.共に汗を流し、まっすぐ、体当たりする経営者」は2部構成でお届けしております。 第一部と河邉幸夫氏のプロフィールは「010.共に汗を流し、まっすぐ、体当たりする経営者 1/6」よりご覧ください。
― 同世代の力士とあまり親しくしなかったと?
一門のお世話になった先輩と酒を酌み交わすことはあっても、同世代の力士と一緒と
遊ぶことが出来ない性格でした。仲良くなったら真剣勝負なんてできません。
気心知れていて、本気でぶつかり合うなんて考えられない。そんなこともあって、
あまり顔にも出さないタイプでして、『能面』というあだ名がついていたくらいです。
部屋が決して大きいとは言えないので、自分で他の部屋に出稽古に行くこともありました。 だから、「俺はひとりで強くなった」という想いが強かったかもしれません。
玉桜改め、玉海力へ

安心から慢心、そして、怪我に悩まされながら、やがて20歳に。
成績も一進一退。遊び歩き、つい稽古に身が入らない日々。
そんな時、入門からずっとかわいがってくれた親方(当時・元玉乃海)が亡くなり、目が覚めた。
「一からやり直そう」
四股名を玉桜から、親方の現役時代の四股名の一字を
もらって玉海力に改め、緩んだ心にネジを巻きなおして猛稽古。
一気に十両まで昇進を果たした。関取・玉海力の誕生である。
十両になって初めて関取と呼ばれる。場所中、相撲を15番取れるのはここからである。 大銀杏に化粧回し、土俵入りが許され、いよいよ幕内が見える。 十両昇進後、2年を経て玉海力は新入幕を果たす。
しかし―
1993年5月場所の千秋楽。玉海力は力士生命を絶つことになる怪我をする。
取り組みで負った突き指が実は骨折で、深刻な状態を招く。治療のための全国行脚の
最後に『引退』が待っていた。
怪我で変わった人生観・人間観
それまでは相撲のことしか考えなかった。あとは自分が満足することだけ。 年をとっていくってことが頭になくて、自分がどんどん強くなっていくイメージしか なかった。でも、自分の体が壊れるという現実があって、助けてくれる人がいて、 いろんな仕事があって、考え方があってということを初めて知りました。
― 怪我が力士生命を脅かすものだと悟って真っ先に何を考えた?

再起。それだけです。
助けてくれた人に感謝はしたけど、引退する場所までその先のことなんて考えなかった。
土俵に戻るための努力はなんでもしたし、素晴らしい治療法があると聞けば、
全国どこにでも受けに行きました。とにかく土俵に戻ることだけを考えて。
そのために金に糸目はつけなかったですね。
でも、現実的には体が動かない。
その時、ちょうど長男が生まれましたから、このままでは生活できなくなるなと
実感しました、けじめをつける時が来たと。
その時からですね。「次の人生どうしよう」と考えるようになったのは。 強くなることだけを考える生活から、人生を考える生活になりました。
― 家族の存在は大きいですね。
そうですね。もし、あの時独り者だったら、ボロボロになるまで相撲をとったと 思いますよ。
― 最後の取り組みを終えた直後は?
右も左もわからないまま相撲界に入ってからの16年間のことが
走馬灯のように巡りました。
もう二度とこの場所に戻ってこないんだと思うと涙が止まりませんでした。
これから、どうする?
― 真っ先にしたことは?
風呂に入りながら「さて、これからどうしようか」と。 退職金を元手に何かやらなくちゃと思って、「ちゃんこ屋だな」と・・・
― ほかにチョイスは?

ギャンブラーですかね。
雀荘なんかどうかなと・・・(笑)
でも、子供が学校行くようになって、「お父さんばくち打ちです」って言わせられないんで
それは、ないなと。
タレントでどうか?と勧める業界関係者もいたけど、この顔ですし、 1年くらいであとは鳴かず飛ばずというのが目に見えていましたから、それもなし。
「じゃあ、これは起業するしかない」と。
学校は中2までしかまともに行ってないから、勤め人は無理。
消去法で行くと、食べもの屋さんだと思いました。巡業で行った各地のおいしいものも
たくさん知っていますし、お付き合いのある店もあるから、ちゃんこ屋さんかなと。
で、出すならどこ?と思ったら、両国は嫌だったんです。
私、渋谷で生まれ育っていますからその界隈かなと、それでこの広尾に
たまたまいい物件を見つけたんです。