015.写真の見せ方を考えていきたい 2/2
"幸せを感じる"写真は家族写真
― ぶつける?
ぶつけるといっても、なんかふわふわしたものですね。
被写体との相乗効果もあると思いますけど、
何をぶつけているのかは、はっきりと言葉にできませんが、
人を撮る楽しみでもあります。
「相手に何を強要しているんだろう」って思ったりもしますけど(笑)
― 撮ることは相手に影響を与えるということ?
そういう願望もあるかもしれません。
― 先ほどからお話を聴いていると、随分とのんびりとスローな感じで被写体の警戒心とか抵抗感を和らげる力が強そうですね。
どうですかね(笑)
実家がお寺なんですが、(後頁※1参照)
「あなたじゃなくて、あなたの後ろについているものがすごい」
っていうことはよく言われます。
なんか良い人がついているらしいです。
実際、それでピンチを切り抜けてこれたかな~と思うこともあります(笑)
― 写真をやめようと思ったことは?
ないですね。
始めよう・・・っていう風になった記憶もありませんが(苦笑)
― 見る側として、"幸せを感じる"写真は?
家族写真です。
― 撮る側としてはどんな被写体に挑戦したい?
もっと色々な見せ方を考えていきたいと思っています。
写真って、けっこう、みる側もみせる側も、その幅を限定しているような気がするんです。
もっと自由に観ていいし、つくっていいんだと思う。
具体的に何を撮るかというより、撮ったものをどういう風に見せるか、を考えていきたい。
そしてなにか人の心に残るものを撮っていきたいです。
― 最後に10年後、どんな人になっていたいですか?
あ、それはシンプルです。
ムスッとしたおばちゃんになりたくないですね(笑)
ニコニコした感じのやわらかなおばちゃんになっていたい。
― それは間違いなくならないと思いますよ(笑)
なんだか、ふわふわしたものがどんどんぶつかってきていますから。
ありがとうございました。
インタビュアー後記
自分の写真を見て、鏡に映る自分の顔と違うと思ったら、それは"決め顔"のせいだと喜多村氏は言う。
人は鏡に向かう時、自然と自分なりの決めポーズならぬ、決め顔をつくっているのだそうだ。
では、自分の本当の顔はどこにあるのだろうか。
鏡をじっと見て、鏡を避けたその瞬間、そこにあるのが自分の本当の顔だという。
「ありのまま」「素」「自然体」
自分では見ることのできない自分を見ることができる手段=写真。
筆者は写真が苦手だが、もう少し時が経って、
決め顔を捨てられる潔さが身に付いたら、喜多村氏の前に立ちたい。
そして、このインタビューの時のように何かふわふわしたものをぶつけてもらいに行きたい。
ドリキャリ《完》
今回をもちましてドリキャリは最終回です。
お読みくださいましたみなさまに心より厚く御礼申し上げます。
インタビューを快くお引き受け下さったみなさま、有難うございました。
編集スタッフ一同
※1)実家は福岡県糸島市にある真言宗 大覚寺派 別格本山 千如寺大悲王院 http://www.sennyoji.or.jp/