007.職業:莉理せいら 2/6
ただただ悔し泣き
当時は第二次ベルばらブームで競争率が特に高くて狭き門でしたが、
今にして思えば、落ちて当たり前の実力でした。
でも、あの時はそれがわからなくて、情けない、負けた~っていう気持ちだけ。
ただただ悔し泣きです。
「こんなはずじゃない」とか「なぜ?なぜ?」の繰り返しでした。
両親は「やめる」と言い出すと思っていたようですが、
私の中では「どうしても宝塚に行きたい」という気持ちがますます高まって
すぐにバレエや声楽の猛稽古を始めました。
― 学校では?
しばらくは涙ぐんだりしていました。
入学する前から心は宝塚にありましたから(笑)春休み前は「みなさん、さようなら」と内心では高校生活に別れを告げたのに、私はまた高校に戻ってきている。
宝塚への想いは膨らむばかりで・・・
― そして、再挑戦。かなり濃い1年間だったのでは?
はい。そこからの1年間は「戦闘態勢」でした。もう二度とできないと思います。
次がラストチャンスだと自分で決めて、バレエ・ピアノ・声楽と稽古づけの毎日でした。
「ダメかも」と思ったことは一度もありませんでした。
最初こそ思い込みだったけれど、本物の本気ですし、宝塚以外は考えられない。
両親もそんな私の様子を見て、覚悟が決まったようです。
入学した後、同期と受験前の1年のことをよく話したんですが、
みんなそれこそ死に物狂いで稽古に向かっていたと口を揃えていました。
「もうあんなにできないよね」って(笑)。
あの1年をもう一度過ごすのはどう考えても無理です。
我ながらよくやったと思います。両親も戦闘態勢+全面協力態勢でした。
・・・せいらさんの父・高屋敷哲雄氏はヘッドハンティングを経て外資系企業7社において手腕を発揮してきたエグゼクティブである。 「成果なくして前途なし」厳しい世界を渡り歩く父の"時の時"は娘の"時の時"と見事に重なっていたという。 海外出張の立て込む過密スケジュールの合間を縫い、娘を"確実に成功に導く作戦"を展開したという。・・・
あれだけ「入りたい」「やりたい」と思っていたのに、 最初の年はその想いを伝えるのが下手だったというか、できていませんでした。 試験は歌や踊りだけでなく面接もあって自分はいかに宝塚で力を発揮したいか、 一言でやる気を表現しなければいけないのにそれができていませんでした。
父が面接官に扮して面接の猛特訓をしてくれることもありました。 仕事上、採用面接の経験も豊富なので「そんなんじゃ、伝わらない」と 何度も厳しく言われました。
リベンジの1年~猛父参戦~
― 猛父ですね
ホントに(笑)その父の本気に母の本気も加わりました。面接官役として、
普段お世話になっている声楽やピアノの先生を家にお呼びして、
模擬面接をやっていただいたことも・・・
私が緊張する状況を意図的につくって、唄わせたり、話させたり、"やらざるを得ない"
場面を受験直前につくってくれたんです。
今思えば、先生方もよく来てくださったと・・・(笑)
― お父様は人を動かしてorganizeするのは慣れていらっしゃいますしね。
そうですね。 だから、みなさんに作り上げていただいたという感じで、本当に感謝しています。
―お父様の意外な一面を見た?
はい。恐いくらい真剣でした。
後から聞かされたんですが、歯がゆかったんだそうです。
「どうしてそこまでできるのに、そこまで頑張っているのに、
ちゃんと表現できないんだ」と。
放っておこうと思ったこともあったようですが、結局、放っておけなくて、
父も母も秘策を練ったようです。
―忘れられない言葉はありますか?励ましの言葉とか?
言葉よりも印象に残っているのが、一緒に闘っているという感覚を持ったことです。
私の宝塚への本気度が高まるのと一緒に両親のモチベーションもグッと上がりました。
父は仕事が特に忙しい時期と重なっていたんですが、「何があっても私を守ってくれる」
と感じましたし、母は私が悔し泣きをしていれば、一緒に泣き、踏ん張らないといけない時には背中を支えてくれました。「共に行動する」という想いで家族の結束は
より強まったと思います。